去年を総括すると人生の後半戦の戦い方について考えていた年だったように思う。なんでもかんでもパブリックな場所に書けないこともあるので、圧倒的にコンテキストが不足しているが、あとで自分で見返したときにこんなこと考えてたのかと思える程度のなにかを書き記しておく。
何歳まで生きられるかは神のみぞ知るが、ぼんやりと80ぐらいまで生きるとして、70ぐらいまでは働かないといけないんかなと思ってる。そう考えるとまだ結構時間はあるわけだが、とはいえ今のように、できることを積み上げていくようなやり方は、行き詰まる気もしている。「人生後半の戦略書」という本を読んで、多くの先人たちが晩年は教育者になっていく気持ちがわからんでもないが、それが楽しいかと言われると自分はどうだろう。自分はなんだんかんだ現場で手を動かしてるのが好きなので、なにを成し遂げたかよりも過程を楽しめることのほうが重要なのかもしれない。現実を変えることは難しいが、解釈の余地は自分次第である。なんとなくタイトルに惹かれて手に取った「暇と退屈の倫理学」という本を読んで、趣味を情報(記号)として消費するな、暇を楽しむのにも教養が必要であるという気づきがあった。人生を楽しむにはもっと教養を学んだほうがいいかなぁとわりと真面目に考えている。あと仕事は人生の一部でしかなく、健康の優先度はもうちょっと上げたほうがよいというのは、中年に不変の真理として間違いなさそうである。
記録として仕事のこともちょっと書いておくと、去年の前半は予定通りMLOps周りを耕していた。推論のAPIを作ったり、学習のパイプラインを作ったり、手元で動くからproduction環境での運用に耐えるレベルまでのギャップが如何に大きいかということを学んだ。なんかかんや自分は手を動かしてみないとイメージが掴みづらいので、アーキテクトの仕事をするのにも必要なことであった。この領域はデータサイエンスとソフトウェアエンジニアリングの両方の知識が必要となるので、できる人はほとんどおらず真空地帯であるが、それがビジネスのコアに紐づいていない限りは評価されづらい領域なので、世間でもまだ正しく評価されていないように思う。自分はどちらかというというと、システムに組み込むのは得意ではあるが、どのような仕組みで動いているのかに興味があるので、引き続きもっと基礎を学んだ方がよいかなぁと思ってる。
生成AIについて思うところはいろいろあるが、ローカルLLMで遊んだりしてみてる。手元で動かせるレベルのサイズだと、正直精度はおもちゃみたいなもんなのであるが、精度は時間が解決してくれると思ってるので、現時点ではあんまり気にしていない。自分は制約条件の中で多少の工夫の余地があったほうが楽しいので、手触り感のあるローカルLLMはおもちゃとして最適である。もうちょっと時間があればいろいろ試してみたいことがあるのだが、なかなかうまく時間を捻出できてない。吊るしのモデルをただ使うのではなく、ドメインに特化させるラストワンマイルは創意工夫の余地がある分野だと思っているので、もうちょっと遊ぶ時間が欲しいのだが、他にやらないといけないことが多すぎてどうしたもんか。
去年の後半は仕事の優先順位が変わったりして、結局インフラのお仕事をしていた。ちょっと距離を置こうとしてたはずなのに、結果的にOpenTofuやDiggerで遊んだりしてて、なんやかんや楽しくなってしまった。認めたくないものだな。個人的にはMartin先生がOpenTofu陣営に移籍したのがうれしくて、もうちょっと耕したい気持ちもありつつ、これを耕してもどこにも辿り着けないというのも分かってしまっているので、趣味的に細く長くOSSコミュニティに貢献していくぐらいの距離感を保つのがよいんかなというかんじ。
手を動かす仕事以外には若者のメンターなどもしているのだが、直接仕事を教えているというわけではなく、キャリアのお悩み相談のようななにかを8人ぐらい相手してる。自分は生存バイアスの塊であるという自覚があるので、うまくできているかはよくわからない。もし誰かの人生の役に立てているのであればそれはうれしいことだなと思う。人付き合いが苦手でコンピュータとお話している方が得意だからここにいるはずなのだが、流されるままに奇妙なところに迷い込んでしまった感はある。意識高いのか低いのかよくわからんが、もうちょっと他人に興味を持とうというのは目標にしてもいいかもしんない。
というわけで人生の後半戦の戦い方の重点目標を無理やりまとめると、健康、教養、他人への興味。なんだその結論。