ウェブ時代をゆく

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ進化論の梅田氏が語る、これからのウェブ時代を如何に生きてゆくのか。
本書の紹介はググれば他の人がたくさん書いてるだろうから割愛して、個人的に考えたことを述べようと思う。
ウェブの発展により、ある分野についてある程度のレベルの知識でよければ簡単に手に入る。例えば城陽人は今のところAjaxとか全然使えないのだけど、なんらかの必要にせまられてAjaxでサイトを構築せねばならんよーな状況になったとすれば、ググって入門サイト探して適当なサンプルをつぎはぎしてとりあえず動くレベルのもんを作るだろう。それはウェブのなかった時代から考えれば本当に恵まれていることで、興味があればどんどんスキルアップすることだって可能だろう。
でも、現状私は必要にせまられてはいないし、むしろそれよりも修士論文の研究のシミュレータの改良をせねばならんし、本も読みたいし、バイトもするし、いっぱい寝たい。でも私が寝ている間に、世界の誰かはせっせ、せっせと勉強をしていて、ますます引き離されてゆく。スキルアップに熱心な人からすれば、これはすべて城陽人の怠慢であり、寝ている場合じゃねぇと非難されるかもしれない。本書でも時間こそが万人に平等に与えられたリソースであると述べているが、それはスキルがないのはまったくすべて本人の責任ということで、そんな世界はちょっと重苦しくて生きていけないかもしれない。
身近な例で言えば、研究室のサーバーには外部からsshでアクセスできるのだから、うちからでも深夜でも、土曜も日曜もなく、いつでも研究し放題なのに、それをやらないのは城陽人が怠慢だからと責められているように感じるということであって、便利になりすぎたおかげで、幸せなのかどうかわからないということが言いたいわけです。IT技術の進歩に伴って、あらゆるもののスピードが速くなりすぎて、便利だけれども、それは正直しんどいかもしんないということを危惧しているわけです。たまにケータイ電話をどっかにやってしまいたくなるような時は誰にでもあるやん?
これからのウェブの生き方を考えてゆく上で、そーゆー疲れみたいなものとどううまく付き合ってゆくのかというか、息抜きの仕方みたいなのが必要なんじゃないのかなと思うのでした。
もうひとつ。本書ではまったく言及されていないのだけれども、将来のウェブについて城陽人が本気出して考えて見たところ、おそらく次の大きな転換点はウェブが3Dになることなんかじゃなくて、翻訳エンジンじゃないかと思う。あらゆる情報に金銭的、時間的コストゼロでアクセスできたとしても言語間のコストは相当高い。梅田氏みたいに英語圏で生活しているような人には特に気にならないのかもしれないけれども、常時英語のブログをチェックしようとは多くの日本人は思わない。百式みたいな紹介サイトに頼っている。どうしてもそれが必要な情報であれば英語のニュースでもAPIの解説でもがんばって読むけれども、それがアラビア語だったらお手上げだろう。群集の叡智の象徴であるwikipediaに各言語版が存在すること自体が現在のウェブの限界を表していると言える。つまり、情報はアクセスできても理解できなれければただのバイト列にすぎなくて、wikipediaが本当に1つの辞典として集約されてこそ、本当の意味での群集の叡智の時代がやってくるのではないだろうか。
翻訳エンジンは完全にネイティブな訳はできないかもしれないけれども、将来的にCPUやメモリが高速化すればあらゆる文脈の辞書をチェックして、意味ぐらいはまともに通じるレベルの翻訳は技術的にできるんじゃないかと考えている。それがいつ頃できるのかはわからないけれども。
そうした時に何が起こるか?ただ単に海外のページが読めるようになりますということだけだろうか?それは鎖国していた日本に黒船がやってきて、明治維新で西洋の文化がどっと流れ込み、日本の文化と混ざり合って、独自の進化を遂げるぐらいの大変革が起こるんじゃないだろうか。ウェブだけではなくて、それはビジネスやライフスタイルにも多大な影響を与えるだろうし、ウェブの登場によりライフスタイルが大きく変容したのに匹敵するぐらいのインパクトじゃないだろうかと思うのでした。どうでしょう?