世界の終りとハードボイルドワンダーランド

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈下〉 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈下〉 (新潮文庫)

再読。四方を壁に囲まれ心を失った人々が静かに暮らす街「世界の終り」と、近未来を舞台に情報戦争の渦中に巻き込れる「ハードボイルドワンダーランド」の2つの話が絡み合いながら進む村上春樹の代表作。今さらこの本について何か語るというのはおこがましいほどの名作ですが、いちおーなんか書いてみようと思います。以下ネタバレ。

意識の核内で繰り広げられる世界と、外の世界という構造はどことなく宇宙の輪廻的なものを考えさせられます。つまり、今ここにいる世界の外側、神の位置には別の世界が存在していて、人間たちの行動を眺めているんじゃないのかと。そういう発想は途方もなく、結局どこにも行き着かないので、まぁとりあえず外がどうなっていようが自分の知覚できる現代で精一杯生きるしかないわけでという結論にたどり着くわけですが、思考実験としてはいい暇つぶしにはなります。意識の核の中の脳内世界というよりも、鈴木光司ループ (角川ホラー文庫)風にコンピュータシュミレーションと考えた方が情報系の人間としては想像が容易かもしれないです。つまり、生態系のシミュレーションをスパコンで走らせていて、その中の人の気分になってみるわけです。そうすると、あらゆる偶然やできごとはすべて決定論的に発生しているわけで、なんだかまじめに生きるのがめんどくさくなってきました(´・ω・`)うーん、めんどくさくなってきましたという思考に至ったプロセスすらも誰かの管理下にあると想像すると今度はなんだか腹が立ってきました。自分の主体性というものが、本当に自分自身に起因しているのかどうか確信が持てないわけです。まぁとりあえず外が見えないんだから、便宜的に外には誰がいようとなかろうと仮定してもどっちでもいいような気がしますが、なんだか気持ち悪いです。

そう考えると、作中で世界の終りの中の僕が、この世界は僕自身が作り出した世界であるということに気付くというのはいささか無理があるわけです。つまり、その主張の確固たる論拠が一切なく、直感のみで神の視点を得たわけだから、釈迦ばりの天啓でも降ってこない限りは難しそうです。作品の主題として、この閉塞された世界に心のないままとどまるのかどうかというのがひとつの重要な点であることは間違いないんだけど、個人的な意見としては、世界の構造への悟りを直接的に描かず、ラストに僕がする決断が何を意味するのかというのを読者の解釈に委ねるというのでもよかったのではと思うのでした。