鼠三部作

村上春樹イエローページを読んだ後、鼠三部作(風の歌を聴け1973年のピンボール羊をめぐる冒険)を再読。当初はバラバラにレビュー書くつもりだったんだけど、読了したもののレビューを書く暇がない状態だったので、まとめて書こうかと。

以下、鼠とはなにか個人的解釈。ものすごいネタバレ注意。村上春樹イエローページのネタバレも含む。
イエローページを読めばわかるように、風の歌を聴けのタイムテーブルには矛盾がある。冒頭に2週間の話と書いてあるのに、どうがんばっても時間軸を考えれば3週間かかりそうだという。注意深く読まないとまず気付かないわけですが、てか、注意して読んでも、全然違和感ないですねorz
で、このつじつまを合わせるために、イエローページでは鼠三部作すべてにおいて鼠は既に死んでいる鼠幽霊説という仮説が示されるわけです。たしかになかなか説得力があり、また、ほかの2作の記述もそれをほのめかす記述が多々ある。
でも個人的な解釈としては、死んでいるというのは正確ではないと思う。なぜなら、鼠は1973年のピンボールの中でもぼかされてはいるが、自殺するシーンがあるし、羊をめぐる冒険では僕が別荘にたどり着く1週間前に首をつって死んでいる。また幽霊とは思えないほど、現実的な生活の後を残している。この矛盾をどう説明するのか?
まず、この問題を考える場合に、基本となるものとして、村上春樹小説における二つの世界の対比構造がある。既に失われてしまったものを表現するあちら側の世界と、まだ失っていないものをあらわす現実世界。そして、鼠はあちら側の世界の住人だ。また、この鼠と同じように何度も死ぬ人物が、風の歌を聴けで何度か言及されるハートフィールド作品に登場する。そして、あちら側の世界とこちら側の世界をむすぶ井戸も登場する。この井戸というのはねじまき鳥クロニクルに多用されるわけですが、まぁそれは今のところ置いておいて、つまりこのハートフィールド作品の主人公はあちら側の世界の住人であり、あちら側の論理では何度も死ぬことは矛盾しないと述べている。ちょっと出先からこの文章を書いてるので手元に本がないので正確な記述ではないけど、そのような意味のことを述べている。つまり、鼠は幽霊というよりももっとフィクションというか抽象的で観念的な存在ではないのかと思うわけ。それは70年代に生きる僕が失ってしまった60年代の人々の思想であり、また僕の中の損なわれた部分を映す鏡であり、もしかしたら存在したかもしれないもう一人の僕の可能性のようなものではないか。それが、友人という形を借りて、実体を持ったものが鼠という存在ではないかというのが個人的解釈。